| JCIの歴史と原点 / 創始者の足取り / 拡大の20年 / 対話の30年 戦争と戦後の国際化 / 花ひらく50年代 / 舞いあがる60年代 |
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| JCIの歴史と原点 ――セントルイスの灯―― |
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| 「カリフォルニア州ウィッティアJCの一人の名誉会員として、アメリカ合衆国JCが50周年を迎えたことに、とくに感慨を深くするものであります」という書き出しで、アメリカJC50周年記念誌に、リチャード・ニクソン元大統領のメッセージがのせられている。思いがけない人が元JC会員だったり、現役会員だったりして、ときどきびっくりすることがある。ニクソン元大統領のほかに、初の大西洋ノン・ストップ横断飛行を成し遂げた故チャールス・リンドバーグ氏もまた会員の一人であった。わが国においても多くの国会議員(衆議院議員83人、参議院議員11人)や文化人が会員となっているが、青年会議所ははかりしれない魅力を秘めた青年そのものだといえるような気がする。 JCは、アメリカはミズリー州セントルイスの修道院を根拠として始まり、世界各地に広がった。日本JCは国際青年会議所(JCI)の存在にかかわりなく発祥したのは周知のことであるが、1951年にJCIに加盟し、以後国際的にも活動を拡大し、JCI第2位の国家青年会議所として活躍している日本JCも40年目を迎え、種々の問題点を乗り越えて70年代を歩んできたが、日本JCよりも2倍の長い歴史をもつアメリカJCについて、私たちが一応の認識をもっておくのは、何がなんでもアメリカ一辺倒という、世にある意識とは全く無関係に、大変参考になることだと思う。 ■創始者の足どり この団体の60年という歴史は、人間のその仲間との交友と、その家庭と、そのコミュニティと、そしてリーダーとしてその環境に反応してゆく、彼らの能力との結合である。 時間を切って、この歴史にあることがらを選択することは、どんなものを選ぶにしろ、その作業は愚かなことではないにせよ、不可能である。しかし、私たちは与えられた期間を見ることはできるし、いつ青年会議所が生まれたか、そしてかつて青年がこの国で必要な発言力を持たなかった時代から、それを持てるようになった青年を開発し、育んできたということを示すこともできる。 ときは1920年、ウォーレン・G・ハーディング氏が第29代アメリカ大統領となった。初のテレビ受像機が紹介され、国際連盟が形成され、無政府主義者たちが殺人罪で告発され、ウォール街が爆破された。 これらの事件は、それ自身、特別な領域を歴史の中に満たすものであったが、その間、アメリカ社会のコミュニティ・レベルにおける進歩にとって、非常に大きな力となる可能性をもつできごとがおこった。すなわちアメリカJCが設立されたのである。 いったい何が、この新しい団体に生命の息吹を与えたのだろうか? 1905年の初め、セントルイスの若い銀行員、ヘンリー・ギッセンバイヤー・ジュニアはこの社会において青年が真に活躍するようになるべきだ、という展望をもっていた。彼が直面した主な問題は、伝達の媒介物が足らないという点だった。 1910年、ギッセンバイヤーはハーキュリアン・ダンス・クラブ(巨大なダンスクラブの意)をおこした。これは社会団体として初期的なものだったが、このダンスクラブは古いステップのダンスを保存することを目的としたものであった。その後、お酒がダンスに付きもののようになってきたが、ハーキュリアンの会員はこうしたことに反発した。 彼らは、お酒が用意されている会場では踊らなかった。それは修道院を借りてやっていたためであるが、場所は自然とミーティングの場所ともなっていた。 こうしたことは意味のないことのように思えるかもしれないが、ここに、後にJC理念(Jayceeism)として知られるようになった、その起源となる何かがあった。このJC理念とは、コミュニティとは社会問題に青年が関係し、青年がそれらを巻き込んでいくという意味あいがある。 新しい役目を認識してゆくため、ハーキュリアン・ダンス・クラブは、1915年にその名称を「進歩的青年市協会(YMPCA)」とした。これは、セントルイスの市政に関係するようになった政治家の小グループのなかの一人、コーロネル・モーガン氏からヒントを得たものであり、彼と仲間のミーティングを修道院の中で何回もやったなかから生まれたものである。このときギッセンバイヤーは32歳であった。 この新しい協会の後援者となり、親密な関係をもつようになったのは、セントルイス商工会議所の初代会頭クラレンス・ホーワード氏であった。後に同氏の要請により、協会の会員たちは「若い市民(Junior Citizens)」と名称を変えた。これが「JC」の最初の由来である。 1918年、ギッセンバイヤーとセントルイス商工会議所に友好関係をもったJCは「若い市民」を「青年商工会議所」と命名した。1920年1月22日、似かよった団体がギッセンバイヤーの下に集まり、セントルイス青年会議所が一つの協議会のもとに形成された。 6ヵ月後、セントルイス市での初の全国会員大会が開かれ、「アメリカ合衆国青年商工会議所」が登場することになった。ギッセンバイヤーは青年商工会議所の目的として「国家と同じく明確に定義された建設的な方法を通じて共通の目標である“より偉大なアメリカ”をめざして青年のエネルギーを開花させる」と説明している。 ■拡大の20年代 アメリカJCの始めの10年間は内部抗争と成長にともなう苦痛によって位置づけられる期間だった。始めの幾年かの間、必要に固められたかのような国家の中の新しい団体として、JCは、生き残るための勢力そのものの中に自らを見い出した。 全国的規模の団体としての価値が初めて確立したのもこうしたときで、全国各地の青年会議所に国家青年会議所会頭から広報誌が配布された。1921年のことだった。 1925年までに、加盟したグループの数は45にのぼったが、これらはほとんど必要なものが成就されていた分野、地域のみの中での拡大だった。会員青年会議所は彼らの会費支払いについては力をほとんど持たなかったので、国家青年会議所の組織・計画は弱いものだった。財政的には、アメリカJCは零細予算を運営していて、1924年の例をとると2,000ドルとわずかで、JC運動が全国的に影響を与えることはほとんどなかった。 しかし、会員青年会議所は大きなことを成し遂げ、多くのものを成功させていた。彼らにとっては、アメリカ青年会議所は具体的な利益をほとんど出さないものだったし、会員による国家青年会議所予算からはなんの魅力も引き出しえなかった。これは、多くの会員青年会議所が国家青年会議所から独立して活動していたということである。 1926年は、全国的に広報物を配布する初年となり、組織を強化する段階に入り、JCを内部的に固めた。また同年にアメリカJCは第1回冬期会員大会を開き、そこにおいて初の国家青年会議所プログラム「まずアメリカを知れ」を採択した。 「まずアメリカを知れ」プログラムは、市民の社会、国家について、彼らを教育することをねらったもので、ただ市民に対してその市民権にそう特権と機会を知らしめるだけでなく、また相応の義務をまっとうする用意をさせるというものであった。 1926年の全国大会までに、28の新しいJCが組織された。その後いく年かは、JCが国内の主な都市に空港を建設する努力を払った期間で、そのため航空部門の開発においてJCは主要な役割を担った。 1928年、アメリカJCの全国的規模のプログラムに、航空、政治教育、植林、法律的援助、米加関係、そして海外関係と多くの部門が加えられた。 1929年始めに、JCストーリーを聞いたと思われる200万人のアメリカ人とともに、初の“JC週間”が加盟団体によって設けられた。11月には一つの方針が認められた。それはJCは、商工会議所とは別の存在であり、この2つの団体が広報活動や事業計画について相互に支援しあうという方針であった。 20年代の最後の注目すべきものとして、アメリカJCが法人化され、役員とその運営面に対して法的保護が加えられたことである。それは10年目のことであった。 ■対話の30年代 JC運動を結合するための新機軸がダーワード・ホーウズ氏によって明らかになった。同氏は1930年にJCマークをデザインしたのである。 1930~31年のアメリカJC会頭として、ホーウズ氏は多くの方法によって全米に広がる各地JCを結合することを念願していたが、正式に登録されたJCを表わすマークのデザインは、彼の業績を光らせることになった。 その後、これは会員バッジとなり、JCの団体名称が変わる1965年まですべての会員が着用していたものである。 1920年から30年にかけての会員増加は、社会改良をするという理由で集まった全米の青年を、JCが求め、その結果として得た意義ある回答だった。30年までにアメリカJCの会員数は4万9千近くまでになった。この急速な成長は、また会員数に比例して全国大会への代表者の数が増加していき、各国家青年会議所プログラムを確実にした、そのときどきに発展度が明示された。 1930年代は経済不況によって組織機構上に大きな変化がみられた。アメリカ史上最悪の財政的挫折とともに、JCは全米にわたって経済活動を保つために努力し、人々に「より働け、より高い報酬を得よ、より多く購買せよ」と吹き込んだ。 JC運動が不景気を乗り切ってから、運動は全米に関係する主な事がらについて対話を起こすための再植林的なプログラムを広げていくよう、力が入れられた。 1931年12月、JCは2人の偉大な人物のうち、一人を失った。JC運動の初の支援者であるクラレンス・H・ホワード氏がなくなったのである。 1932年1月20日、初めて「創始者の日」が特別貢献賞をもって行われた。祝賀式は20日に行われたが、実際は1920年1月22日で、現在の「創始者の日」としている。全米特別貢献賞の受賞者が初めて選ばれ、現在行っている「10人の傑出した青年」(TOYM)の先がけとなっている。 組織機構の面については、アメリカJCの副会頭の数が7人から10人にふえた時期でもあり、この副会頭の数は後の常任理事会の構成につながっている。 1934年のマイアミ全国会員大会への参加者は、また初の全国会員大会パレードを行うことによって、その先駆者となった。幾年かののち、アメリカJCは商工会議所からは全く独立した団体という決定をした。 ■戦争と戦後の国際化 アメリカ青年商工会議所が30年目に入ったとき、かつてない試練に出会うことになった。それは、アメリカ青年商工会議所の約85パーセントにものぼる会員が戦争中、軍務に服していたのである。1942年のダラス全国会員大会は「戦争コンベンション」と命名され、大会では次のような決議文が採択された。 「われわれは、国家が望む勝利と平和を達成するために、充分にして継続的な支持を再び誓い、必要なら奉仕と生命を喜んで提供しよう」 会員の85パーセントが軍務についているあいだ、残っている会員は戦争債券や証紙の販売、献血運動、そしてくず鉄、ゴムその他戦争支援に使えるもの、必要なものの獲得に猛運動を展開していった。 戦場と家庭で一貫した努力を通してアメリカ青年商工会議所は第二次大戦の悲劇と混乱のなかを生き残った。45年、日本が降伏したときには、アメリカ青年商工会議所は“25年勝利”と呼ぶにふさわしく、創立から25年をへた1950年までに2倍の会員増加率をもって“最大の拡大”を経験した。 戦争の勃発に先だって「10人の傑出青年表彰式(TOYM)」が復活し、40年代を通して存続し、将来、重要で威信ある広報プログラムになるよう運命づけられた。 40年代のTOYMで表彰された人々のなかには、ネルソン・ロックフェラー(ロックフェラー財団)、レナード・バーンスタイン(指揮者、作曲家)、ヘンリー・フォード二世(自動車会社経営)、ジョン・F・ケネディ(元大統領)、ジョー・ルイス(元世界ヘビー級チャンピオン)、ビル・モールデン(漫画家)、アーサー・シュレジンガー(作家)、リチャード・ニクソン(元大統領)、ジェラルド・フォード(元大統領)、チャールス・パーシー(上院議員)、そしてバドウ・ウイルキンソン(作家)の名があった。 オクラホマ州タルサ市に戦争記念本部の設立決定がなされたのも1946年秋の同じ時期にあたる。そして1949年に着工された。 ところで青年会議所の世界組織を確立することが必要だという考えは、20年代に始まり、30年代にも若干試みられたが、各国にそのような組織が本当に必要であると理解せしめたのは、第二次大戦であった。 1942~43年度のアメリカ青年商工会議所会頭ウィリアム・M・シェファード氏とカナダ青年会議所アリン・ティラー氏は、戦争により国際協力の必要性が広く人々に認識されるにおよび、中南米地域において国際的な青年会議所グループの形成をめざすのは、このときであると判断した。 中南米への旅行は決して安全とはいえなかったし、困難もあったが、8ヵ月間の準備のあとシェファード、ティラー両氏は中南米に旅行をした。彼らは好意をもって迎えられ、話が広く結ばれて、1944年12月11日、メキシコ・シティーで開かれたインター・アメリカン会議で「国際青年会議所(JCI)」が現実のものとなった。 組織委員会による準備のあと、最初のJCI世界会議が1946年2月にパナマ市で開かれた。JCIは年月がたつうちにゆっくりと成長していき、加盟国は75ヵ国になり、アメリカ青年会議所から8人のJCI会頭を出すにいたり、そしてJCI本部がフロリダ州に設置された。 JCI活動は非政治的政策を普及させ、伝統的な国家間の憎悪を解消し、普通の権利を与えられていない国々の地位向上、そして国際的な交友関係の発展など多くのことを達成した。 全国会員大会が終わったあと、その雰囲気、興奮、選挙運動、感動、そして感激が毎年夏に開かれるこの大会に参加した人々なら誰にでも残っている。そして、それは40年代の青年に関しても同じことがいえた。 そうした雰囲気がビル・ブラウンフィールド氏をして「JCI綱領(クリード)」をつくらせたのであった。46年のことである。ビルはオハイオ州コロンブス市の新しい青年会議所会員であり、彼が初めて参加したミルウォーキーでの全国会員大会では、かしこまっていた。しかし、その彼がコロンブス市に帰る途中でクリードを作成したのである。 クリードは翌年、アメリカ青年商工会議所で正式に採択されたが、51年には「Faith in God(神を信じる)」という語句が冒険につけ加えられた。クリードは「彼らが住んでいる世界をよりよくしようとする若者の心に存在する精神の完全なる表現」として引用される。 1950年までにアメリカ青年商工会議所(これは同時に徴兵年齢にあたる若者とその組織を意味した)の会員数が2つの世界大戦を生きぬいたという、かなり大きな業績を成しとげた。 アメリカが第二次大戦に突入するに先だって、アメリカ青年商工会議所の会員数は45年には最高で6万5千人以上に達したが、43年には4万2千人に減った。45年は軍人が少しずつ本国帰還を始め、会員数は6万3千人にもどった。日本が45年の夏に無条件降伏してからは、軍人が続々と帰還し、46年6月までに10万5千人の会員を有するほどになった。 さて、30年以上の間、青年商工会議所は国家的事業をとりあげ、彼らが必要としているものをパンフレットやニュースレターにのせて送り続けたが、どのように行うかという手法に絞った雑誌が強く望まれ、プログラミングがより強調されるようになった。 1960年、ブートン・ハーンドン氏は「若人は世界を変えることができる」という、いまではすべてのJC運動の合い言葉になっている言葉を誌名に、一冊の本をまとめ出版した。それは今日でも読まれ引用されアメリカでのJC運動の影響を明確にあらわしているものとして考えられている。 ■花ひらく50年代 プログラムと内部強化によって強調される10年間だった。50年代にアメリカ青年商工会議所の進む方向は明らかに転換した。われわれの将来を形づくる進歩は、われわれがおし進めてゆく精神によって発掘された。 内部的には、常任副会頭にアメリカ青年商工会議所の財政について強い管理権を与えるという再編成をもって、その年は始まった。そして、それより輝かしい財政絵巻の始まりであった。 1950年という年は、9千人のJC会員を巻き込んだ朝鮮戦争の年でもあったが、このときは第二次大戦中に経験した会員の減少ということはなかった。この時期の3つの主要な対外計画は「10人の傑出青年表彰式」と「民主主義の声」、そして「ジュニア・ゴルフ大会」であった。 1951年8月4日、オクラホマ州タルサ市の南部に置かれているアメリカ青年商工会議所の戦争記念本部に次の言葉が奉じられた。 「この記念碑は、戦時に自由のために軍務についた若者たちに捧げるものであり、平和への探究を続けるため、あらゆる地域、若者たちへの教示として持続するものなり」 同1951年に、ダグ・サンダース氏が全米ジュニア・ゴルフ選手権で優勝した。彼は、この大会で勝者となった数人の若者たちの一人であり、その後、プロゴルフ界で名声を得るに至った。 国家計画は翌年も拡大され、10代の青年を対象とした「安全運転技術競技大会(自動車ロデオ)」を始め、また交通安全、社会問題、国際関係、そして宗教活動を強調し、拡大していった。 アイゼンハワー大統領は、1953年、ミネアポリスの全国会員大会で演説したが、かつて例がなく、彼が最初の大統領であった。彼は次のように強調した。 「諸君の組織は最もきわだっており、時代を先取りしている組織である。諸君は心に残る体験と、諸君の心にすでに記録されているすばらしい業績に関して、若い責任ある人々である。それゆえに諸君は若さと責任との両方を持ち、明日への自由な将来のすべてに対して最も大きな責任が何であるか知っている」 50年代のなかばの重点事業は指導力、拡大、会員開発におかれ、その結果急速な成長があった。 1954年8月、タルサ市にあるJCホワイトハウス(会頭公邸の意、本部建物の裏にある)を設立するという決定がなされた。50年代の最も注目すべき「傑出青年」といわれる3人は、ロバート・F・ケネディ、レバンド・B・リチャード、そしてトーマス・ドーリー博士であった。別の褒賞プログラムとして「傑出した若い農夫」が55年6月に加えられ今日も続けられている。 50年代後半の著名人の何人かのなかには、57年のジュニア・ゴルフ選手権優勝のジャック・ニクラウスという名の若き友人もいた。 アメリカは57年JCI世界会議を主催し、同じ年に会員数は20万人以上となり、59年には第一回社会開発セミナーを開いた。 この10年間は「花ひらく50年代」として知られ、再編成と内部強化と強力な計画を通して、すべての活動の将来への踏み台を設置した。 ■舞いあがる60年代 1960年代は、青年商工会議所創立40周年を祝うため、1960年度の全国会員大会がセントルイスで行われたように、舞いあがる青年会議所精神とともに始まった。祭典の焦点は、基調演説者が当時アメリカの副大統領であったリチャード・ニクソンであったことだ。 アメリカ青年商工会議所会頭が特別製のヘンリー・ギッセンバイアー記念メダルを受けとった全国会員大会開会日に、特別の40周年記念事業が行われた。その事業は、製作者のビル・ブラウンフィールド氏がクリードを朗読することで終了した。 人間が宇宙空間を冒険したこの重要な10年間に、JC会員は41分野にまたがる数限りない事業を含めて、彼らの計画を頂点にまで発展せしめた。 1969年以来いままで以上に力をいれて推進するプログラムが41から11の主要分野に手直しされた。これらは国際的活動、つまり交通安全、健康、会員募集と各地JC拡大、会員開発レクリェーションとスポーツ・コミュニティ・リレーションズ、環境の改善、州や地方都市および大都市運営、アメリカ主義、広報活動、犯罪防止法の実施を含んでいる。 この国々には、びっくりするような国内問題があるがアメリカ青年商工会議所の重点事業のなかに、そうした大きな問題の起こりうる変化を見ることができた。アメリカのテクノロジー(技術)は貧困と個人の苦痛を解決できなかったので、60年代の後半に「雇用機会の増大」という自らを助ける計画が導入された。 アメリカ人は、自らの地方自治体、教育制度、青少年プログラムに不満をもつようになってきた。その結果、青年商工会議所は一時的な解決より「病気」の原因となるものをなおすことにより市民を巻き込んでいこうというねらいで計画に着手した。 「自然」はまた青年商工会議所を全米規模のプログラムに深く巻き込んでいった。1965年に発生した2つの大台風により引き起こされた災害に対しての援助要請に強力にこたえた。 60年代のこの国には、知能発達の遅れが主要な健康問題として関心を受け始めたが、青年商工会議所は「精神衛生と精神的障害」の分野にて企画活動およびプログラム推進を行なった。 これら知能発達の遅れがみられる子どもたちの手助けをするための努力というのは、青年商工会議所組織が外に多くの事業があるなかでも、国中の精神的障害者を対象とした特別のオリンピックを後援するという努力をしているケネディ財団に協力することだった。 この若者の組織が1970年にセントルイスで開かれるわれわれの記念式典に向かって進んでいるとき、われわれはごく最近の10年間の一般的におおざっぱな歩みをふり返ってみただけでなく、変化と成長の50年をもかえりみた。 この10年間に会員数は10万人を越え、1964年にはアメリカ青年商工会議所が2度目のJCI世界会議を主管し、そして1965年バッファローでの全国会員大会では、アメリカが青年商工会議所が、その名称を「商工会議所」から「青年会議所」(U.S.Jaycees)に変えるなど、大きく流れを変えた。 対内的には、JCは4つの戦争(第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争)を生きぬき、セントルイスの修道院で少数の人々から50州を代表する40万人以上の団体にまで成長していった。 対外的には、われわれの企画活動およびプログラム推進は、アメリカの成長とアメリカの問題の双方に影響していった。かつてJCは、ダンスホールからアルコールを追放するキャンペーンを始めた。今日、JCは人間性を求め、その運動を展開している。 |
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